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人生朝露

人生朝露

尸解の世界。

再び日本書紀。
『日本書紀』。
『十二月庚午朔、皇太子、遊行於片岡。時飢者臥道垂、仍問姓名、而不言。皇太子視之與飲食、卽脱衣裳、覆飢者而言、安臥也。(中略)
 辛未、皇太子遣使令視飢者。使者還來之曰、飢者既死。爰皇太子大悲之、則因以葬埋於當處、墓固封也。數日之後、皇太子召近習者謂之曰「先日臥于道飢者、其非凡人、必眞人也。」遣使令視。於是、使者還來之曰「到於墓所而視之、封埋勿動。乃開以見、屍骨既空、唯衣服疊置棺上。」於是、皇太子復返使者令取其衣。如常且服矣。時人大異之曰「聖之知聖、其實哉。」逾惶。』(『日本書紀』 巻第二十二 推古天皇紀)
→十二月の庚午の一日、皇太子(ひつぎのみこ)は片岡の地に行啓された。その時に飢者が道端に倒れていた。名前を尋ねても答えることはなかった。皇太子はこれを見て食べ物とのみの喪を与え、服を脱いで彼にかけて「安らかに臥しておくようおっしゃられた。(中略)
 辛未の日に、皇太子(ひつぎのみこ)は飢者の様子を見て来るよう使者を遣わされた。使者は還ってきて飢者はすでに死んだと報告した。皇太子は大いにこのことを悲しまれ、その地に埋葬して、固く墓に封じられた。数日の後、皇太子は近侍の者に「先日見た行き倒れの飢者は、凡人ではなくきっと眞人であっただろう。」とおっしゃり使者にそれを確かめるよう遣いされた。使者が還ってきて「墓所にて見分たところ、土で埋め固めた場所は動いておりませんでした。これを開けてみると、死体も骨もすでになく、ただ棺の上に衣服が畳まれておりました。」と報告した。そこで皇太子は再び遣いされてその衣を持って来させ、いつものようにこれを纏われた。当時の人々はそのことに感じ入り「聖は聖を知る、とはまさにこのこと」として、ますます畏まった。

真人。
この皇太子というのは聖徳太子のことです。片岡山伝説もしくは飢人伝説とも呼ばれるお話で、ここでも「真人」という言葉が使われています。途中に、棺を開けて確かめてみると、「屍骨既空、唯衣服疊置棺上。」すなわち「遺体がなくなっていて、衣服だけが棺の上に畳んで置いてあった。」と書いてあります。

参照:始皇帝と道教。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201410120000/

天武天皇と道教。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201502010000/

・・・死んだはずの人間の遺体が消失しているという現象。
『日本書紀』にはもう一つ記されています。

『日本書紀』。
『卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。』(『日本書紀』 巻第七 景行天皇)
→景行天皇はすぐに群卿を召しだされ百寮に命じて、日本武尊(やまとたける)を伊勢の國の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬られた。時に、日本武尊は白鳥と化し、陵を飛び出して倭國の方へと飛んでいった。そこで、群臣らが日本武尊の棺を開けてこれを見てみると、明衣がむなしく残るばかりで、屍も骨も無かった。そこで、使者に遣いして白鳥を追わせたところ、白鳥は倭の琴彈原(ことひきはら)に留まったので、その地に陵を造った。白鳥はさらに河內へと至り古市邑(ふるいちのむら)に留まったので、その地にも陵を造った。時の人々は、この三つの陵を「白鳥陵」と呼んだ。その後ついに白鳥は上天へと高く飛んで行ってしまったので、日本武尊の衣冠のみを葬り、その功名を伝えんがために武部と定めた。この歳は天皇が即位されてより四十年目であった。

こちらも、古代日本のスーパーヒーロー、ヤマトタケルの最期。
ここでも棺を開けてみると、「明衣空留而屍骨無之」。衣服だけが残り、遺体が無かったと記されています。

ここで対比していただきたいのが、紀元1世紀、後漢の時代に成立した『列仙伝』。
伝説上の人物「黄帝」のお話です。

龍に乗る黄帝。
『黃帝者、號曰軒轅。能劾百神、朝而使之。弱而能言、聖而預知、知物之紀。自以為雲師、有龍形。自擇亡日、與群臣辭。至於卒、還葬橋山、山崩、柩空無屍、唯劍舄在焉。仙書云「黃帝采首山之銅、鑄鼎於荊山之下、鼎成、有龍垂鬍髯下迎帝、乃昇天。群臣百僚悉持龍髯、從帝而升、攀帝弓及龍髯、拔而弓墜、群臣不得從、望帝而悲號。故後世以其處為鼎湖、名其弓為烏號焉。』(『列仙伝』黃帝)
→黃帝は軒轅(けんえん)とも号した。百神をはげましては、公において彼らを使役した。幼くして言語に巧みであり、聡く、未来を知り、事物の道理に通じていた。自ら雲師となり、龍の姿をしていた。この世から去る日を告げて、多くの臣下に別れの挨拶をした。死んでから、橋山に帰って葬られた。その後山が崩れ、柩は空で屍はなくただ剣と舄(くつ)だけがあった。仙書は云う「黃帝首山の銅を採り、荊山の下にて鼎を作った。鼎ができあがった後、顎鬚をはやした龍が黄帝の迎えにやってきて、共に昇天した。群臣百僚はことごとく、龍の鬚や帝の弓につかまって共に天に昇ろうとしたが、鬚は抜けて弓も落ちてしまい、臣下たちは従うことができなくなった。彼らは帝を望んで号泣した。それゆえその場所を鼎湖とし、その弓を烏號という。

黄帝の死の場合には「柩空無屍、唯劍舄在焉」、剣と靴だけが残っていたと書いてあります。

というわけで『抱朴子』。
葛洪(283~343)。
『又按漢禁中起居註云、少君之將去也、武帝夢與之共登嵩高山、半道、有使者乘龍持節、從云中下。云太乙請少君。帝覺、以語左右曰、如我之夢、少君將舍我去矣。數日、而少君稱病死。久之、帝令人發其棺、無屍、唯衣冠在焉。按仙經云、上士舉形昇虚、謂之天仙。中士游於名山、謂之地仙。下士先死後蛻、謂之屍解仙。今少君必屍解者也、近世壺公將費長房去。及道士李意期將兩弟子去、皆託卒、死、家殯埋之。積數年、而長房來歸。又相識人見李意期將兩弟子皆在郫縣。其家各發棺視之、三棺遂有竹杖一枚、以丹書於枚、此皆屍解者也。』(『抱朴子』 論仙篇)
→また『按漢禁中起居註』にいう、李少君がこの世から去ろうとするとき、武帝は夢を見た。少君と共に嵩高山に登り、道の途中で、龍に乗り杖を携えた使者が雲の合間から降りてきた。彼らは太乙が少君を呼んでいるという。武帝はそこで目覚め、左右にその夢の話をした。「もし私の夢の通りであるならば、少君はもうすぐ私の元から去るだろう」と。数日後、少君は病死したという。しばらくして、帝は使者に棺を開けさせてみると、少君の屍はなく、ただ衣冠のみがあった。また、『按仙經』によると、「上士は身体をそのままに虚空へと昇る。これを天仙という。中士は名山に遊ぶ、これを地仙という。下士は一度死んで蝉の抜け殻のような状態になる。これを屍解仙という」とある。そうすると、少君はきっと屍解者であったのだろう。最近の例でも壺公は費長房を連れ去っているし、道士・李意期は二名の弟子を連れ去っている。皆何かに仮託して死に、家人が殯をしてこれを埋めている。数年経ってから、長房は帰ってきたし、李意期と二名の弟子は四川で知人に会っている。家族が棺を開けてみると、三人の棺には、それぞれ竹の杖が一本ずつ入っていて、丹沙で名前が書かれていたという。これは皆、屍解者であったのだ。

尸解 屍解。
「(尸/屍・しかばね)を解く」と書く「尸解仙/屍解仙」。
昔は「しけせん」「しげせん」とも呼んでいたようですが、現在は「しかいせん」と読む方が通りがよいです。
平安末期、大江匡房の著した『本朝神仙伝』以降、「日本の仙人」としてヤマトタケル、聖徳太子が挙げられることがあります。これは『日本書紀』において、神道の枠内では説明できない上記尸解仙の記録があるためです。

シンクロ率400パーセント シンジの服。 人類補完計画 リツコの服。
「尸解仙」のイメージとしては、『新世紀エヴァンゲリオン』で、シンクロ率が400パーセントを突破し、エントリープラグ内で肉体が消失した碇シンジや、「AIr まごころを君に」で衣服だけを残して液状化した人々のそれに近いかなと思います。あと「魂魄」をゲームのHP・MPにたとえることがあるんですが、HPゼロでMPだけの存在として活動していると仮定してみると分かりやすいかな。

『抱朴子』において葛洪は『史記』にも登場する李少君の死を引き合いに出して、李少君は屍解仙であったとしています。また、仙薬の「上品・中品・下品」と同じように、1.身体をそのままに虚空へと昇る天仙。2・名山に遊ぶ地仙。3.一度死んで蝉の抜け殻のような状態になる屍解仙として、尸解仙を最低ランクに位置づけています。触媒や依代として、衣服や装飾品、剣や杖などの道具を使用して、その痕跡が残ってしまうちはまだまだ未熟という思想ですね。

参照:「封禅書」と道教。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201410050000/

例えば、
杖を託すマスター・ウーグウェイ。
『カンフーパンダ』のマスターウーグウェイは、その最期において「杖」を依代や触媒として扱ってません。『スターウォーズ』のマスターヨーダもそうですが、公然と、衣服も残さずに消滅するならば「天仙」と言えます。

参照:The Illusion of Control
https://www.youtube.com/watch?v=DLpUev1FvS0

なお、
オビ=ワン・ケノービ。
「尸解仙」の典型的なパターンと言えるのはオビ=ワン・ケノービです。彼の場合には、身体(死体・遺体)は消失して、衣服と剣が残っています。宋代の道教経典『雲笈七籤』では、この尸解を剣解と呼んでいます。

参照:Obi - Wan Kenobi Vs Darth Vader - A New Hope
https://www.youtube.com/watch?v=sq51w34Hg9I

マスター・ヨーダと老荘思想 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5026/

今日はこの辺で。



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